昭和44年06月15日 特別奉修委員
非常にまぁ魅力的な御理解として頂いておられるが、本当にあのう金光様のご信心しよりゃ信心しよらんものが、十万円の着物着りゃ二十万円の着物でも着れれるような、おかげを頂く事が有り難いというのであってね。金光様の信心しよら、みんなそげなおかげ頂かれるという意味じゃないとですよね。だから信心してそういうおかげの頂かれるような、信心を頂けということなんです。
ですからねそこんところをひとつ、ようあのう心に掛けておかんと、今日あの久富クニカさんが言うておられるように、今日のご理解は本当にあの合楽の信心を一通りマスターしなければ、今日のご理解は頂けませんと言うておられますですね。ですからその本当にあの桜の花のようなおかげを受けるというとこだけ、そらもう本当に人が十万の着物を着るときに、二十万円の着物を着られると言った様な事じゃない事を、ようくここら辺をひとつね、あのう間違えんように。
だから今日のは大変まぁだ時間を掛けてお話したいというね、特に最後のあの歌舞伎の傘を使うところの御理解でね、申しておりますように定九郎が使う傘、助六が使う傘または、松平伊豆守が使う傘ですね。そう言う様な例えば、どういう中からでも安心が頂けるのだと。だから自分が現在悪い事しよるばってん、こら安心していいなと言った様な意味じゃなかて言う事。それにはねもっともっと、私は只今その事に頂くのがあの精進傘という事を頂くんですよ。
御心眼に白と黒のね、黒の輪の入った、中が真っ白の傘を頂くんですね。あのこれをよけるこれを、よけたいと言う様なね、信心からは今日の御理解は生まれて来ないとです。例えばあの、あの死んだっちゃままよというかね。あの言うならば、あのういわば何んて言うですかね、お道で本当の信心の死生観を得なければ、今日の御理解の内容が分かったと言う事は言えない。そこでね段々ほんならちょこっとばっかり、例えばおかげを頂く頂き始める。
そすともうそれで自分にこれだけのしても良かと言った様なね、甘ぁい考えではなくてそういう時に自分の信心がね、あのいよいよあのうお広前にお引き寄せ頂く事が、楽しゅうなって行くと言う様なね。お広前を遠ざかるのは信心の抜け始めと仰るが、おかげを戴いて行きよる。お金は貯まっていきよる。よい着物やら洋服やら着れるようになった。神様のほうには、段々段々疎遠になって行くと言う様な事では、今日の御理解は全然意味ないとですよ。
この良い着物は着れる様になった、良いものを食べられるようになった、こういうものを自分の身に付けられるようになったといや、言や言うほど神様に近付かせてもらう心は、強うなって来るというもんでなからなければ安心はいかんとです。ですからもういよいよ、例えばおかげを頂いていきゃ頂いて行くほど、拝む事が有り難うなって来た好きになって来た。お広前に例えば本当にお広前に例えばこうやって、おらせて頂く時間が長ければ長いほど有り難うなって来たというのとです。
この今日私が言うおかげのところがですね、あのういうならば、あのう伴うて参りませんと可笑しい。ですからどういう事かと言うと、ほんならそりゃぁ本当に人が十万円の着物を着る時に、二十万円の着物が着れれるようなおかげを頂くようになれば、なるほど朝参りが楽しゅうならねばいけん事になるね。まぁ早分かりして言うとね。もうとにかく年取ったけんで、もう朝起きが出来んてんなんてんち言うごたる事では、言う様な事にでんなって行きよるならね、このおかげは可笑しいんです。
いわゆるそげな例えば良い物を身に付けたり、食べたりしていきよる事は、もういよいよめぐりを作っていく。もう必ずおかげを落とす元になって行くでしょう。ですから良いものが身に付けれるごつなりゃ、なるほぉどですよ、信心の方が密になって行きよらなければいけんでしょうが。今日の御理解の内容、例えば私の信心が桜の花のような信心だとね。それにゃ但し梅の花の信心と、柳の信心がこう三つがね、一様に育っていくような内容でなからなならんと言っておりますようにね。
桜の花の方ばっかりが華やかになって、素直になる事には努めようともしない。または信心辛抱する事にはもうしるろしゅうなって来るというのならね、こらもう一遍振り出しに戻ってね、あのうおかげを修行をし直さなければいけない。今日の御理解はみんな頂いてから、もう本当に合楽の信心の素晴らしさということを言われるなり、幾人も言われるんです。そらそうですよ。久留米の石橋先生が自分の娘が嫁入る時に、それを全部集まってきたものは、お金に変えてお供えされたというのでしょう。
私のは反対に集まって来るものはそれを全部持たせてやろうという行き方でしょう。そして私が言うておる事は、私の頂き方の方が本当だと。金光教の信心はそんな小さいものじゃないんだと言うておるでしょう。けれどもその内容には、今日私の信心がですね、例えばほんなら私がなら七十になっても、八十になってもこの生のある限り、私がほんなら神様へいわば拝む事が好きになっていく事であろう。
または御結界奉仕なら御結界奉仕が、いよいよ蜜になって行くだろうというものが、私の場合は育って行きよるからそれが出来る。そしてほんなら天地の親神様もですたいね。例えば洗いざらしの着物を着ておるよりもやはりね、例えばその私どんは昨日夕べ見てきましたが、本当に一枚の着物が何十万とする様な物が、身に付けられる位なおかげを頂くと言う事。ほうが神様は喜んで下さるんだという私のいき方なんですよね。ですからその生き方には、だから間違えると大変怖い落とし穴があると言う事です。
はぁ合楽の信心は素晴らしか。例えば精進もせんで良かと言った様なもんじゃないという事ですね。例えばそこにその精進はせんでも良いなら、良いけれどもその内容が出来て行きよらにゃいかん。それを一番端的に私は頂いたのが、今の今日のお芝居の傘の様々な傘。どの様な傘でも安心が頂けるけれどもです。なら最後のね人間で言うならば、死ぬるという一番悲しい事に出合っても、神様にお礼が申し上げれるような信心が、出来ていきよれば定九郎が持っておる、蛇の目の傘ででも。
定九郎的な生き方の中にでもです、安心が許されるという事になるのですよ。ですからここんところをひとつ、まぁ今朝の御理解のもう少し説明不足であったところを、只今頂いたように思うんですけれども、結局はですおかげを頂いていけば頂いていくほど、お参りがせにゃおられんごつなって来ると。おかげを頂いていけば頂くほど、例えば朝参りがいよいよ楽しゅうなって来ると。
おかげを頂いていけば頂くほど一時間よりも二時間ち言うと、拝む時間が楽しゅうなって来るごたるものも、一緒に育って行きよらなければ、例えば桜の花だけのおかげのところだけを言うとったんでは、これはもう必ずおかげ落とす元になる事だけは間違いないですよね。今日の朝の御理解に、いわばこれは付けた御理解ですね。だからそこんところをだから自分の信心が、そう言う風になって行きよる。ちっとおかげ頂くともう朝が眠うなる。苦しか時だけは一生懸命朝参りするけれども少ぅし楽になったら。
もう朝参りがしるしゅうなると言う様な信心なら、もう絶対人が十万円の着物着るとき、二十万円の着物を着れれるような、資格は与えられないです。と私共は知っとかないかんと思うですよね。段々神様へ向けられる心、いわゆるお広前を遠ざかるのは信心の抜け始め。おかげを頂いていけば頂くほど、お広前が遠うなって来るならば、これはもう大変危ないことなんです。
おかげを頂いていけば行くほどに、いわばお広前に一遍まいりゃ二編参らなきゃおられんというごつなって来よるならば、あなたのこのおかげは絶対確かなものだと言う。そういうおかげを受けてくれよという神様の願いなんですからね。どういう百味の飲食も良かろう。それこそ何万何十万するような洋服なら、洋服を常日頃に身に付けておっても良かろうという事になって来る訳です。この辺のところをようとひとつ分かって頂きたいと思うですね。
どうぞ。